『おいでよ どうぶつの森』の基本データ
『おいでよ どうぶつの森』のレビューを書こうとして、まず頭に浮かんだのは村の風景ではありませんでした。これを買った当時の、自分の顔です。

| 発売日 | 2005年11月23日 |
| メーカー | 任天堂 |
| 機種 | ニンテンドーDS |
| ジャンル | コミュニケーション |
| 当時価格 | 4,800円 |
村に引っ越してきて、家を建て、たぬきちに借金をして、あとは好きにしてくださいというゲームです。シリーズ第4作にして、携帯機では初。ニンテンドーWi-Fiコネクションで、遠くの友人の村へ最大4人まで出かけられました。倒すべき敵はいません。目的は自分で決めます。決められなければ、何もありません。
さて、ここからは20年前の自分の話をします。
流行に飛び乗って、のんびりを買いに行った
買った動機は、はっきり覚えています。話題になっていたからです。
当時、周囲でゲームから離れていく人間が増えていました。その流れに逆らってやろう、という気持ちが少しあった。流行っているものに飛び乗れば、また熱が戻ってくるんじゃないか。そういう、自分の物差しを一切使っていない買い方でした。この手の買い物が後から効いてこないことは、いまなら分かります。当時は分かっていませんでした。
惹句は、たしか「のんびりスローライフ」といった調子のものでした。
私は学生でした。
朝は起きたい時間に起き、講義は行きたいものに行き、夜は無為に長かった。のんびりした暮らしなら、すでに手元にあったのです。それでも私は村に引っ越し、虫を捕り、魚を釣り、家具を並べて、ローンを返しました。現実では誰にも借りていない借金を、わざわざ画面の中で背負った。しかも喜んで返した。あの頃の自分に事情を聞きたいところですが、たぶん本人も答えられません。
上画面を軽んじていた男の末路
ゲームには一家言ある、という自負が私にはあります。根拠は特にありません。かけた時間だけは人より長い、という程度のものです。
その物差しで見ると、この作品の2画面の使い方は実に見事でした。上に情報、下にキャラクターが動く世界。メニューを開くたびに画面が丸ごと切り替わっていたら、村を歩く感覚はぶつ切りになったはずです。切り替えないという判断そのものが、遊び心地を決めている。うんうん、と1人で頷きながら遊んでいました。
そのうえで、私はこう思ったのです。「ただ、たまに上の空をプレゼントの風船が流れていくのは、さすがに2画面の持て余しだろう」と。
——順序が逆でした。
DSになって画面が2つになったから、村に空ができた。空ができたから、そこに風船とUFOを飛ばせるようになった。しかも風の音が鳴る。音が鳴ったら上を見て、下の画面で位置を合わせ、パチンコで撃ち落とす。上画面は余った土地ではなく、撃ち落とすために用意された空だったわけです。私が「持て余し」と呼んでいたものは、2画面がなければ存在しなかった遊びでした。
20年ごしに、上画面から論破されました。物差しを振り回すのは結構ですが、振り回す前に空を見上げるべきだった。

拾える。ならば拾う
いまの作品なら、1度行った場所へは一瞬で飛べるのが普通です。移動は削られるべきもので、実際たいていは削ったほうが快適になる。ところが私は、この村では端から端まで自分の足で歩いていました。歩いている途中で季節が変わり、木が実り、誰かが引っ越してきて、足元に何かが落ちている。その「途中」こそが中身なのだと、歩きながらうすうす気づいていたのだと思います。
で、私はその途中を、拾いながら歩いていました。
浜に転がっている貝殻。木を揺すって落ちてきた枝。とりあえず拾う。拾えるから拾う。拾える。ならば拾う。それだけの生き物だった。効率を求めるゲームではないと分かっていながら、拾得だけは異様に効率的にこなしていた。実際の生活では、道に落ちているものを拾ったりしません。当たり前です。当たり前のことを、画面の中でだけ堂々と放棄していました。

思い出したのは、子どもの頃に友達の家で触ったファミコンの『ハイドライド3 闇からの訪問者』です。あれは持ち物に重さがあり、持ちすぎると移動が遅くなり、最悪まったく動けなくなる。小学生の私にその理屈が理解できるはずもなく、「移動がやたら遅い、出来の悪いゲーム」だと本気で思っていました。悪かったのはゲームではなく、両手いっぱいに荷物を抱えた小学生のほうです。
あのシステムは、いま思えば私への警告でした。そして私はその警告を、20年かけて完全に無視し続けたわけです。どうぶつの森は、どれだけ拾っても歩く速さが変わりません。海水浴に行くような足取りで、荷物を抱えたまま村を1周できる。優しい世界です。その優しさに、私は遠慮なく甘えました。
「久しぶり」という名の請求書
この村は現実の時計とつながっています。夜に起動すれば夜で、土曜の20時を回れば、喫茶店でとたけけがギターを弾いている。時刻の概念自体は『ポケットモンスター 金・銀』の頃からありましたが、あちらが「時間帯で出会うものが変わる」だとすれば、こちらは「その時間に立ち会えなければ、無かったことになる」に近い。毎日ちょっとだけ起動させる仕掛けとして、これ以上のものはそうありません。
ただ、当時から引っかかってはいました。夜しか触れない人はどうするんだろう、と。時間が無限にあった学生の私が言うことではありませんでしたが。
そして、その引っかかりの答えを、いまの私が身をもって出しています。
しばらく空けてから村へ行く。会う住民が、口々に「久しぶり」と言ってくる。悪気はまったくありません。彼らはただ、そこで待っていただけです。それでも私の受け取り方としては、「久しぶり」は挨拶であり、同時に請求書でもありました。行くたびに言われれば、明日は行かないと、と思う。しばらくは、その義務感でちゃんと通えるのです。ところが空いた日数がある線を越えると、義務感のほうが突然、音もなく外れる。外れたら最後、日が空くほど戻りにくくなる。放っておけば雑草は伸び、ひと月も空ければ家にゴキブリが湧く。毎日起動させる設計は、毎日起動できない人間を、いちばん遠くまで押し出します。
念のために書いておくと、これは欠陥ではありません。毎日そこに居られる人のために作られた仕組みが、居られない人にはそう働く、というだけの話です。当時の私は前者で、いまの私が後者だというだけの。
余白を計る大人
久しぶりにDSを引っ張り出して、村を歩いています。目的はありません。目的がないことがこのゲームの中身です。分かっています。分かっているのに、腰を据えて遊んでいると、頭のどこかが勝手に計算を始める。
この2時間で、他に何ができたか。
余白を楽しむゲームの前で、私は余白を計っていました。並行して何か片付けられないか、とまで考えている。腕は落ちていません。落ちたのは、何も生まない時間をそのまま置いておく度胸のほうです。学生の頃は、それこそ捨てるほど持っていたのに。

子どもには、この手の時間を惜しまずに使ってもらいたいと思います。まあ、こちらが言うことではないのかもしれませんが。
ついでに白状すると、この村の設計はたぶん恐ろしく難しい。倒すべき相手も、進むべき筋書きもなく、最初に渡されるのが借金だけ。逃げ道を1本も用意せずに、枝葉だけで何百時間も遊ばせる。それを最初にやったのが2001年のNINTENDO64版だというのだから、当時の判断はどうかしています。褒めています。
総評
★★★★☆ 目的を配らないゲームとしての完成度は、いま遊んでも古びていません。ただし本作を最大限に浴びられるのは、時間の使い道に締切がない人です。
推奨アクション: 当時の村が残っているなら、まずDS本体が生きているかを確認してください。カートリッジの中身は、たぶんあなたが思っているより荒れています。当時を知らない人は、逆に急がないでください。1日15分を1か月、くらいの構えで始めるのが、この作品にはいちばん合っています。中古は今も安く手に入ります。
ちなみに今回、久しぶりに歩き回った村で私が最初にやったことは、足元に落ちていた貝殻を拾うことでした。余白の使い方は、20年で見事に下手になりました。拾い癖のほうは、1ミリも治っていません。
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